日本の不可視生物研究、そして、魔境・大東京について

日本不可視生物研究の始まり

日本において不可視生物の研究は平安時代中期に発足したと考えられている。それ以前から不可視生物に関連するであろう資料は見つかっているが、“研究”が行われ出したのは藤原実頼の息子である藤原道唯が不可視生物を視認できる体質として生まれたことに起因する。

道唯は不可視生物への視認力が極めて高かったと複数の資料から推察されているが、実頼や家族は人に見られない物怪の話ばかりをする道唯を気狂い扱いし、蔑んだ。特に、規律を固く重んじる実頼は不可視生物がいることを理由に儀式に参加しなかった道唯を強く非難し、根声寺という寺に出家させた。出家させたことで藤原としての道唯についての資料は数が少なく、これ以上の情報は長年見つかっていない。

道唯は出家したことで藤原道唯の名は捨て、伊京という名に改名した。伊京は不可視生物を見ることができる以外は、真面目かつ規律を重んじる実頼の性格を受け継いでいた。伊京は根声寺で生活を営みながら、隙を見て不可視生物の生態について研究をした。ある日、僧侶の一人に研究を目撃されたが、僧侶は藤原家の人間とは違い、不可視生物に対して興味を抱き、研究に賛同した。

伊京は30歳になる頃には少なくとも10匹以上の不可視生物を捕獲し、研究していたと推察されている。その中には現在のI-0777-ibeno/モノかくし蜘蛛やC-0555-ibeno/ハゲもどきだと見られるものも含まれる。また、その中の1匹に、今でも明確に発見されていない、人間に近い知能・言語能力を持ち、研究を共におこなった不可視生物がいたという説があるが、現在では先述した僧侶のことだったのではないかとする説も存在する。

伊京はある日、僧侶とともに寺から夜逃げし、その行方を追った者を物怪の力で退けたとの記録が残っていることから、伊京は不可視生物を使役し、操る高度な技術を有していたと推察されている。夜逃げしたのち、現在の大阪の地である女性と恋仲になり、子供を作り、大阪の地で60歳ごろに生涯を終えたとされている。

僧侶の怨念

伊京と共に夜逃げした僧侶は、不可視生物の研究の仲間を募り、生涯を伊京の不可視生物研究に注いだ。募り、集めた仲間と、僧侶、伊京の息子であり、伊京と同じく不可視生物を視認することができる唯吉は、伊京亡き後も研究を続け、日本不可視生物研究の基礎を築いたとされている。

僧侶は晩年、不明な病に犯された。この病に不可視生物が関わっていたかは定かではない。死の間際、僧侶は唯吉を呼び止め、不可視生物研究を続けるよう言い残したが、唯吉はそれを拒否した。なぜ拒否したかについて、明確な情報はないが、唯吉はその頃商売で成功していたとの記録があることからそのためだったという説が有力である。そのことに怒った僧侶は、唯吉に掴みかかり、「呪う」と、それのみ発して絶命した。その時、蛇のようなものが見えたと唯吉は記録している。

その後、唯吉は商売で更なる成功を収め、その子孫は江戸へと移り住んだ。

江戸の異変

唯吉の子孫は江戸に移り住む頃には、江戸の中でも有力な商人となっていた。その力が頂点に達し、豪遊の限りを尽くしていた時、異変は起こった。長男の冴助が乱心し、一族を滅多刺しにした。冴助はすぐに取り押さえられたが、「呪った」と発し、跡形もなく姿を消したとされている。その様子が空間が切り裂かれ、吸い込まれた、とあることから、異次元への転移が行われたと推察されている。冴助は蛇のような何かに操られていたとの情報が存在する。その後、江戸では人が暴れ回る事件・乱が異様に増えた。

この頃の江戸の武士であり、不可視生物研究家である者は、人間、そして多くの不可視生物の体に何かが突き刺された形跡があると残している。これに関してT-0666-ibeno/ドキヘビに関連性があるかは不明である。

魔境大東京

明治の主要な不可視生物研究家である伊部権三郎は、東京を訪れ、自身の書「見えざる生類」にて、以下のように残している。

怨念渦巻く東の都東京は魔境である。

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