「人間は考える葦である、なんて言葉があるけれど、その言葉に適う人間って、どの程度居るのかしら」
人気の無い図書室の空気に、低く、しっとりとしたハスキーボイスが溶けていく。
眼下で開かれている本を見詰める真珠の様な乳白色の瞳には、しかし、自身の言葉に対する興味がある様には思えない。
これが彼女なりの雑談の形なのだと、彼は知っていた。
「さあ。私は長らく、人間とは程遠い生を歩んでいるもので」
教会で懺悔を聞く神父の様な慈悲深さを薄い微笑みに湛えながら、彼は答える。
その言葉には何の嘘偽りも無いと云う事を、彼女は知っている。
向かい合う彼の手に開かれている本の題名を何とは無しに眺めながら、彼女は静かに続けた。
「そんな人間と程遠い貴方だからこそ、口に出来る言葉もあると思うのだけれど」
人間と同じ姿形を持ち、しかし人間と同じ造りには出来ていない。
所謂人造人間と云う括りが適切であろう彼は、その内側と同じ様に、感性も人並みからは外れている。
曰く、人としての『僕』は、特例部隊の彼に渡してしまったのだと。
一度だけその後ろ姿を眺めたその人物は、自身に差し伸べられる全てを拒絶している様な、孤独な気配を纏っていた。
「研究者に於いて、自身の内に生まれこそすれ、それを口外する事は愚だと云う言葉は、暗黙として知られる所です」
「ここが、只の図書室の一角だとしても?」
言葉も無く、彼が頷く。
その後に続いた沈黙は、本の頁が捲られる音が、切り分ける様に遮っていた。
「……私達の事を、貴方はどう考えているの」
「どう、とは?」
「二つ訊きたいの。偶発的に起こった事とは云えど、私達は人と同じ姿を持った。その事について、貴方はどう考えているのか。そして、この現状についてどう思っているのか」
人間としての姿を持ってから、ずっと訊きたかった事だった。
先程の考える葦についての話題から繋げる心算だったが、予想外に進展しなかったし、直接訊く事にしたのだ。
リインカー=ニートンなる者が暴走し、方々で起こした問題によって、彼女達は元の姿から、人間としての形を得た。
彼女からすれば、自由に動き回れ、現状この世界を征服している生物と意思の疎通が行えると云うのは降って湧いた幸運と云えるが、彼等からすればそう簡単な話でも無いらしい。
耳を立てて聞こえてくるのは、彼女達の戸籍についてや、人間と変わらない姿を持つ、所謂超能力者に分類される様な存在に対して、実験等を行って良いのかについて等が、幾つか。
彼女から考えてみれば、自分とは違う姿の者達にも研究の一環として実験を行っていたのだから、今更何を臆する所があるのかと思わなくも無いが、彼等はどうやら同胞と同じ姿をした存在に手を伸ばす事には躊躇する様だ。
恐ろしい話だ。
詰まる所、彼等は生き延びる余地を狭めている。
どれ程困窮し、追い詰められても、彼等はその美徳の為に共食いを厭い、死んでいくのだろうか。
或いは、そうして窮する事が無ければ、それに気付かないのか。
「何も」
彼の言葉に、物思いから醒める。
何も。
オニキスにも似た黒々とした瞳を見るに、それは彼の正直な回答なのだろう。
何も、思っていない。
感じていない。
そうか。
現状について疑問を抱いているのは、自分だけなのか。
「……そう」
呟く様に返して、彼女は本に視線を落とした。
肩透かしを食らった気分だった。
彼等が方々で語るどうやら自分達の事らしい実験の何事かや、その内容に苦い顔をする彼等の顔を見ていて、自分達はどの様に扱われているのかを知りたかったが、存外彼等は現状を深く受け取ってはいないらしい。
物事を憂えているのは、自分だけか。
或いは、そうして憂えるだけの状況に至っていないのか。
どちらとも取れるし、どちらとも取れない様な、形容し難い違和を感じる空気だった。
「強いて云うのであれば」
彼の言葉に、引き寄せられる様に顔を上げる。
眼前には、先程から何も変わらない薄い微笑みがあった。
「貴女達には、我々の行いに付き合って頂いている立場ですから。我々が勝手に悩んでいる事ですので、心配する事はありませんよ」
気付けば、彼の手にある本は閉じられていた。
読破したから閉じられているのか。
重要な物事について話しているから、それに注力する為に閉じられているのか。
意識していなかった事もあってか、見た限りでは解らなかった。
「我々は、それぞれ我々で。貴女方は、それぞれ貴女方ですから」
「……そう」
また、肩透かしを食らった、と思った。
折角、こちらが心配してやっていると云うのに。
その親切心を、『こちらの都合』の一言で片付けるのか。
「心配して損した」
「おや。それは申し訳の無い事をしました」
「折角の親切心を踏み躙ったのだから。相応の責任は、取って貰えるのよね?」
「ええ。励んでみましょう」
そうだ。
こちらに損をさせたのだから、それに対する報いは必要だ。
さて、何を願ったものか。
うんと難しい物にしてみようか。
うんと難解な謎掛けにしてやろうか。
そう云えば、最近風紀委員の何某に、髪について指摘されたのだったか。
最近は、こちらに声を掛けようか迷っているのか、下手な尾行をしてくる者達も増えてきているし。
「……そうね。最近風紀委員の人達が髪を切れって、執拗なの。あと、私を尾けてくる人達についても、そうしてコソコソするなら紙にでも書いて、机に置いておけって云って貰えると助かるわね」
「ふむ……前者は兎も角として、後者は良い提案だと思いますよ。彼等彼女等も、悪気があってやっていた事ではありませんし」
「知っているわ。だから云っているのだし」
疾うに読み終わっていた本を閉じ、見せ付ける様に意地悪く微笑んで見せる。
「私としては、後者の確約が出来るのなら、前者の良い結果も期待したいのだけれど?」
「難しい所ですね。彼女等も役目としてやっている事なので」
微笑みに困った様な気配を滲ませた彼に、彼女は笑みを深める。
元々困らせる為に云った事であるし、その希望が通ろうが通らなかろうが、彼女の言葉は己の役目を既に果たしていると云えるだろう。
彼女としても、現時点で相応の満足を得られていた。
ここ等で勘弁してやっても良いのだが、実際その二つについては面倒だと思ってもいる。
何かしら行動させる事が出来るのであれば、そうさせてみるのも良いか。
そこまで考えた所で、予鈴が鳴った。
そろそろ、午後の授業が始まる頃だ。
「一先ずは、声を掛けてはみましょう。やり様によっては、改善はされるかも知れません」
「ええ。こちらとしても無理強いしているとは思っているし、改善されるのならそれで構わないわ」
席を立ち上がった彼に、彼女は二人の間にある机に置かれた幾つかの本の内から、小説を一冊取り上げながら云う。
その様子に、彼は呆れた様に彼女が選んだ物を除いた本の全てを持ち上げた。
「まだ本を読んでいる心算ですか」
「ええ。大丈夫よ、遅刻にはならないから」
「またここの窓から下の樹に跳び降りて、教室の窓から入るのですか」
「遅れるよりは、余程良いでしょう?」
彼女等が通う学園は、良くも悪くも個性的な者達が多い。
それ故、何等かの事案が起こった場合に備え、等級が上がるに連れて、教室の階層が下になっていく。
彼女の様に三等級に分類される生徒は、移動教室等がある場合を除き、一階の教室で授業を受けるのだ。
今日の午後の授業は、現代文。
予鈴が授業五分前に鳴る事を考えれば、三階にある図書室から廊下や階段を通って遽だしく行くよりは、ここの窓から跳び降りて中庭の樹を経由しながら一階に移動し、窓から教室に入る方が時間を短縮出来るだろう。
今まで幾度も繰り返した事であるし、教師陣も既に諦め始めている。
彼女としても、万一にも怪我をする事は無いと云う確信があった。
「教師である私としては、時間に余裕を持って、徒歩で安全に教室に行って欲しいのですがね」
「生憎だけれど、お断りするわ。さっきのお願いに、それも入れようかしら」
「解っていますよ。であればせめて、怪我が無い事を祈らせて下さい」
「お好きにどうぞ。怪我をしても、屹度貴方が治してくれるだろうけれど」
彼女の言葉に、彼は短く嘆息する。
『否定はしない』
彼の態度は、言葉は無くとも、そう雄弁に語っていた。
「……貴方、また殺されるのね」
「ほう? 今度はどの様に?」
図書室の出入り口の扉に手を掛けた彼が、興味深そうに尋ねる。
彼の顔に、彼女は少しばかり呆れた様に続けた。
「全身の骨を砕かれた後に、シュレッダーに掛けられるそうよ」
「それはそれは、惨たらしい事この上無い。気を付ける事にしましょう」
そう云って、彼は図書室から出て行った。
恐らく、彼は今云った通りに殺されるだろう。
彼の代わりに静謐が読書の隣人となった図書室は、彼女と彼以外に誰も居なかったと云う事もあり、僅かに開いた窓から入ってくる樹木の葉擦れの音以外は聞こえなくなった。
残り五分ともなれば、頁を捲る音も幾らか聞こえる程度だろう。
とは云え、相応に読み進める事は出来る。
結果として、彼女は単行本小説を二頁と五行読み進めた後に窓から跳び降り、怪我一つ無く、素知らぬ顔で教室へと戻った。
……後の話にはなるが。
後日、風紀委員からは『その髪型が親友の遺言なのであれば、先に云って貰えないか』と涙ながらに云われ。
彼女の机には、友達になりたい、部活動に入ってくれ等の願いが、様々な紙に様々な文字で、山の様に積もる事となった。
『転んでも、只では起きないって事ね……』
それが、風紀委員の言葉や文字通りに山積した紙を見聞きして、肩に掛けた鞄をずり落としながら、呆然と彼女が呟いた言葉である。
以降、彼女は彼に未来を教える事を止めた。
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